時代と共に言葉は変化していくものです。
言葉の使い方や意味も本来とは別の意味で使われたり、別の言葉へと変わっていくのに私たちは適応していかなければいけません。
しかし、全員が変化した言葉を理解してこそ正しい変化だと私は思います。
一方的な変化は受け入れられません。
普段皆さんが使っている言葉も実は別の意味だったなんて事もきっとあると思います。
本来は別の意味の言葉
- 一姫二太郎
この言葉を聞くと子供を産み育てるのは女の子が1人、男の子が2人という意味で使われるケースが多いですが、これは順番を示している言葉です。
最初に女の子、次に男の子という意味で、数字は順番を表しているのです。
- ジンクス
縁起がいい事を連想させる言葉ですよね。
勝負事前に〇〇をすると勝利する等に使われる事が多い言葉ですが、実際は逆で縁起が悪いものという意味になります。
どちらかというと現代の日本では縁起が良い時に使われる言葉なのでそちらに合わせた方がいいかもしれません。
- 失笑
笑いも出ない、失った笑いと書くのでそういった意味で使われますがこれも違う意味です。
笑ってはいけない場であまりのおかしさに吹き出してしまうという意味が正解です。
似たような言葉で失言がありますよね?
これは失った言葉というような意味で捉えている方はいないと思います。
言ってはいけない言葉をうっかり言ってしまう事が失言の意味なのでよく考えてみれば失笑も納得なんですよね。
失う(うしなう)という意味ではなく失(しつ)、過ちや落ち度を意味する方の意味の組み合わせなので間違えやすいです。
誤用が原因で定着した言葉
- 新しい
新しいという言葉を皆さんはどう読んでいますか?
当然答えは「あたらしい」と読むでしょう。
しかし本来は「あらたしい」が正解で、今では当たり前に読んでいる「あたらしい」という誤用がそのまま定着してしまった故に「あらたしい」では×になってしまいます。
確かに似てますもんね。
- 着替える
皆さんは「きがえる」と読みますよね?
こちらも本来は違っていて「きかえる」が正解になります。
何故「きかえる」なのか?それは青空(あおぞら)、彼岸花(ひがんばな)等の言葉は本来濁点が付きませんよね?
単体で空を「ぞら」、花を「ばな」のように読みません。
この本来付くはずのない濁点が付くのにはちゃんと理由があり、「青」「空」のように最初の言葉の後に来る言葉が清音、つまり濁点でない言葉に濁点が付く現象があり、それを連濁と言います。
しかしどちらも動詞の場合はこれが起こりにくくなり「着る」「替える」はどちらも動詞なので「きかえる」が本来の読み方になるのです。
国語辞典等では「きかえる」とちゃんと表記されていますし、これも誤用が原因で定着してしまいました。
- 独壇場・独擅場
独壇場(どくだんじょう)と独擅場(どくせんじょう)は真ん中の漢字が「てへん」か「つちへん」の違いで読み方が変わります。
どちらも同じ意味とされていますが、独擅場(どくせんじょう)が本来は正しく、擅(せん)とは欲しいままに、独り占めにするという意味で壇(だん)は台の意味を表します。
なので漢字の意味合い的にも独擅場(どくせんじょう)が正解なのです。
これも壇と擅の誤用が原因で定着した言葉とされています。
意外と知らない他の雑学
- 代替
こちらも「だいがえ」と読むのが一般的ですが、「だいたい」が本来は正解。
代替品をだいがえひんとは読まずにだいたいひんと読みますよね。
替(たい)という読みに馴染みがない、替(たい)の言葉が少ない等の理由から「だいがえ」となったという説が有力です。
- 侃侃諤諤・喧喧囂囂
侃侃諤諤(かんかんがくがく)または侃々諤々、喧喧囂囂(けんけんごうごう)または喧々囂々。
侃侃諤諤とは多くの人が集まってうるさく議論するさま。
喧喧囂囂とは多くの人がやかましく騒ぐさま。
意味が似ているようで似ていないので使用時には注意。
- 孫の手
孫の手は背中を掻く際に使用する棒状の物で、先端が手のような形になっていますよね。
言葉の通りお孫さんに背中を掻いてもらうような道具という意味。
ではなく、元々は麻姑(まこ)の手と呼ばれる物でした。
麻姑とは中国の伝説上の仙女の名前で長い爪を持っていました。
その爪で掻いてもらうとさぞ気持ちが良いだろうと背中を掻く棒を麻姑の手と呼んでいましたが、訛ってしまったのか孫の手と呼ばれるようになりました。
他にもきっと本来と違う言葉はあります。
こうして改めて読んでみると面白いですよね。